第51番札所 熊野山 石手寺 虚空蔵院

くまのざん いしてじ こくぞういん

JR松山駅からバス 奥道後行 約30分。石手寺前下車。 
御詠歌 西方をよそとは見まじ安養の寺にまいりて受くる十楽 
住所 愛媛県松山市石手2丁目9-21 
TEL 089-977-0870 
HP http://nehan.net/ 
宗派 真言宗豊山派  
開基
行基  
宿坊 あり(要予約) 
駐車場 境内まで徒歩2分 
松山市役所 電話089-948-6887 
http://www.info-matsuyama.lg.jp/ 

 

日本最古の温泉地・道後温泉が近い事もあり、観光客の参拝が目立つ「石手寺」。
観光客が多いのは、石手寺は四国霊場でも随一の寺宝・文化財を有する名刹。

 

神亀5年(728)、聖武天皇の勅願によって伊予大守越智玉純が鎮護国家の道場として伽藍を建立。
本尊の薬師如来は、翌年の天平元年(729)に行基が開眼した。その時は安養寺と名付けられ、法相宗に属していたが、弘仁4年(813)に弘法大師が来錫、修行したのちに真言宗に改めた。
安養寺から石手寺と称するようになるのは寛平4年(892)からで、寺名の起りは、衛門三郎(えもんさぶろう)が12番焼山寺山中で息を引き取る前に、弘法大師より授けられた「衛門三郎再来」と書かれていた小石があり、後年、伊予の豪族・河野伊予守息利の長子・息方は衛門三郎の生まれ変わりといわれ、息方出生後三歳まで弘法大師筆の「衛門三郎再来」と書いた小石を左手に握っていたとの伝説があり、今もこの石手寺の大講堂に納められている。

 

平安時代の末には七伽藍を備えており、鎌倉時代の末期には、伊予の豪族・河野氏の手厚い保護を受け、寺域は6万6千平方メートルと広く、大寺院となった。
大きな二重屋根の仁王門は、文保2年(1318)に河野通継が建造したもので、国宝に指定されている。左右の金剛力士像は運慶の作で 2.5mの大きさを誇っており、こちらは13世紀後半の作といわれている。

 

鎌倉末期建立の本堂の右側には見事な三重塔があり、元弘3年(1333)建立の鐘楼、建長3年(1251)建立の銅鐘、室町初期建立の護摩堂、河野通清が源頼義供養のために建久元年(1190)に建立した石造五輪塔はいずれも重文指定。

 

広い境内の東奥にある、鎌倉末期に建立された「訶梨帝母天堂」は、子供を守る鬼子母神を祀っています。
このお堂も国の重要文化財に指定されています。
安産祈願の妊婦たちはお堂の前の石を持ち帰り、無事に出産すると石を二つにして返すので、お堂の前には小石の山ができています。

 

門前にある橋の裏側に経文が刻まれており、「洗い石」と呼ばれている。ここは弘法大師がお渡りになったといわれており、お遍路さんは渡ることができない。別名は「渡らずの橋」と呼ばれる。

 

本堂の裏山に造られた洞窟「都卒天洞(マントラ洞)」は通路幅2m、長さ150m程の胎内洞窟。
おびただしい地蔵群、大きな石仏、極彩色に彩られた木造の仏像群に目が奪われる。
宝物館やミニ88ヵ所めぐりと見所が多くある。

石手寺 石手寺 本尊
薬師如来
真言
おん ころころ せんだり まとうぎ そわか
51石手寺の平和万灯会
石手寺の平和万灯会

 

衛門三郎
四国遍路の始まりとも言われている衛門三郎。
衛門三郎の伝説は「伊予二名集」「豫陽郡郷俚諺集」「愛媛之面影」などに書かれていて、弘法大師が四国を巡錫されたとき、河野家の一族でどん欲な富豪の衛門三郎がいて、弘法大師が門前に立ち、布施を頼んだ時、三郎は大師の持っていた鉄鉢をたたき落としました。その鉢は八つに割れ、大師の姿も見えなくなったといいます。衛門三郎は八人の子供がありましたが、その翌日から子供達が次々に死に、八日間で八人の子供が亡くなってしまったのです。
あまりの出来事に衝撃を受けた衛門三郎は、自分が乱暴した僧侶が弘法大師であったことに気付きます。


懺悔の気持ちを持ち、大師を追いかけ、四国各地を廻りますが、旅路の疲れで病に冒され、阿波の焼山寺のふもとで、死を待つばかりとなった三郎の前に弘法大師が現れました。三郎は今までの非を詫び、来世には国司の家に生まれたいという望みを残して死んでしまいました。大師は道ばたの石をとって衛門三郎と書いて、左の手に握らせました。


翌年、道後の領主、河野息利の妻が子供を生みました。その子は左手を固く握って開きません。父母は心配して安養寺の住職に加持をしてもらうと、手を開きました。すると中から石が転げ出て、石には衛門三郎と書いてあったのだそうです。その子は15歳で家督を継ぎ、人民を慈しみ偉大な功績をあげたそうです。

第50番札所 東山 繁多寺 瑠璃光院

52番太山寺へ12キロ

第52番札所 瀧雲山 太山寺 護持院