第72番札所 我拝師山 曼荼羅寺 延命院

がはいしざん まんだらじ えんめいいん

JR善通寺駅からJRバス 詫間行 吉原下車 徒歩17分。 
御詠歌 わずかにも曼荼羅おがむ人はただふたたびみたびかえらざらまし 
住所 香川県善通寺市吉原町1380-1 
TEL  
HP  
宗派 真言宗善通寺派  
開基
弘法大師  
宿坊 なし  
駐車場 境内に隣接 
善通寺市役所 電話0877-63-6315 
http://www.city.zentsuji.kagawa.jp/ 

 

善通寺市に入り、田圃が点在する穏やかな風景の中に、小山が見えてくる。我拝師山の麓にある「曼荼羅寺」。歴史は八十八ヵ所の中で最も古く、推古天皇4年(596)で、当地の豪族であった佐伯氏の氏寺として建立されたもので、弘法大師の先祖にあたり、当初は「世坂寺」と呼ばれていた。

 

大同2年(807)、唐から帰国した弘法大師が、亡き母・玉依御前の菩提を弔う為に、唐の青龍寺を模して伽藍を建て、留学先の唐から持ち帰った金剛界、胎蔵界の曼荼羅を安置した。


本堂の中は、仏教の宇宙感を具現化した曼荼羅空間が広がっていて、大日如来を中心に輪を描く仏の世界を体系的に図示し、それにならい、本堂の中心には大日如来を安置している。

 

本堂から回廊づたいの右手に位置する観音堂には、聖観音立像が安置されている。等身大の桧一本造りのその姿は豊満端厳。藤原期の作品で、県の重要文化財に指定されており、外から目にすることもできる

 

本堂の前には、かつて平安末期の漂泊の歌人、西行法師が寺を訪ねた際に、昼寝をしていた跡だという「昼寝石」が置かれています。
同行した旅人が桜の木に笠を掛け忘れていたのを見た西行法師は、「笠はありその身はいかになりぬらん あはれはかなきあめが下かな 」と詠んだ。その歌碑は昼寝石の横に立っていて、この桜を「笠掛桜」と呼ぶようになりましが、今ではその桜は枯れてしまい、塚のみが残されています。
また、西行法師の仮住まいだった水茎庵が近くにあります。

 

境内には、弘法大師のお手植えで、曼荼羅寺の名物であった、巨大な円形の傘を広げたような「不老の松」は残念ながら平成13年に枯れてしまいました。
その枯れた笠松で制作された笠松大師があります。

笠松大師

 

曼荼羅寺 曼荼羅寺 本尊
大日如来
真言
おん あびらうんけん ばざら だどばん
72曼荼羅寺の聖観音立像
曼荼羅寺の聖観音立像

 

西行法師

本名・佐藤義清(のりきよ)。平安末期の大歌人で、宮廷を舞台に活躍した歌人ではなく、山里の庵の孤独な暮らしの中から歌を詠んだ。

 

祖先が藤原鎌足という裕福な武士の家系に生まれ、幼い頃に亡くなった父の後を継ぎ17歳で兵衛尉(皇室の警護兵)となる。西行は御所の北側を警護する、院直属の名誉ある精鋭部隊「北面の武士」(一般の武士と違って官位があった)に選ばれ、同僚には彼と同い年の平清盛がいた。北面生活では歌会が頻繁に催され、そこで西行の歌は高く評価された。武士としても実力は一流で、疾走する馬上から的を射る「流鏑馬」の達人であり、「蹴鞠」の名手でもあったといわれています。

 

西行は「北面の武士」を捨て、1140年、22歳の若さで出家し、阿弥陀仏の極楽浄土が西方にあることから「西行」を法号とした。

 

1168年(50歳)、保元の乱で讃岐に配流され、4年前に無念を叫びながら死に、朝廷にとって菅原道真と並ぶ大怨霊となった崇徳上皇の鎮魂と空海の聖地探訪の為に四国を巡礼する。

第71番札所 剣五山 弥谷寺 千手院

73番出釈迦寺へ0.6キロ

第73番札所 我拝師山 出釈迦寺 求聞持院